以前からTwitterについて思っていたこと

 個人ブログは2003年から書いているが、Twitterが始めてからちょっと書くことに慣れてしまって、一応、ブログの体を保つためにタイトルだけ書く日々が続いていた。
 ただ、今日、他人の映画感想のツィートに否定的な意見を引用ツィートで書き、本人からお怒りの返信ツィートが来て、謝罪するところまでいった。これは完全に自分が悪く、引用ツィートが返信ツィートと同意になるということを知らなかった己の無知と、他人の感想は他人のものだ、ということを忘れていた自分の愚かさ所以のものだった。
 で、これが良いタイミングで、一度Twitterについて考えなおすきっかけになりそうだな、と久々に日記を書いている。

 そもそも、Twitterをなぜやっているか、と言えば何かあったときの宣伝とイベントや新ツール、仕事募集等の情報収集、友人との連絡手段のためである。ただ、最近はTwitterを見てイラつくことがとても多くなっていた。所詮、人は悪で妬みや恨み、利己的なものだと思っているのなのだが、普段人の裏に隠れていたその人が持つ差別意識選民思想、他者への侮蔑があふれかえっており、たかだか700人しかフォローしていない自分でさえ、毎日嫌なものを見続けて、気を付けよう、気を付けようと思っていても自分でもそれが漏れ出してしまった形が今回の己に起きた事象だったと思う。


 普段尊敬している人たちの根底にある差別意識や利己性を見てしまっても、その人を尊敬し続けれるのか?”人間の屑”とまで罵られても相手を尊敬しきれるのか?大衆の根底にある選民思想や自己愛、差別意識が畝っている様を見続けて、まともで居続けられるのか?
 何より、2割の有益な情報を得るために、8割の不快で無益で建設的でない意見を見続けるのは、実は時間の無駄だったのではないか?


そう思ったときに、一度、Twitterを見るのを遠ざける必要があるな、と思った。ただ、むつかしいのはその2割の情報がかなり重要だったりするところにある。下手すれば仕事にもかかわってくる。そこをどう埋めればよいのかが、全くわからない。所詮自分はアナログ人間だな、と思う。いまだにブログにせずにダイヤリーを書き続けているし。

 100年は無理だと言われていたコンピュータが囲碁に勝つ、ということが現実のものとなり、技術の進歩はすさまじいし、どんどん置き換わっていくし、人の思想も変わっていくだろう。すでに、人の思想はもうすでにコンピュータに凌駕されていたのではないのだろうか?ただ、我々はあくまで人でしかなく、コンピュータのように割り切れないのだ。

 今回騒動になったリベリオンは人が感情がなくなった世界の話だったが、主人公がうずくまったとき、回りのモブがそれを見るために立ち止まったときに”いやいや、感情あるやん”と大学時代に思ったのだが、正直、感情のなくなった人間=ロボット的というのが人間の想像力の限界で、本当は感情がないというのはそこになにかあるのかもしれない。そして、その先は今後の情報化技術の先にあるんではないか、と思うのだ。思わぬところで繋がった。

では、今後自分は作品を作っていく中で、何をもって物語を作っていけばよいのだろうか?今回はその思考のきっかけになると思うのだ。まずは、1日にTwitterを見る時間を制限するところから始めてみよう。何かよい方法はないか探してみよう。その時間をもっと有効に使っていこう。今は3月中旬、新しい半期がもうすぐ始まる。